スペイン風邪

先日、世界保健機関(WHO)が見解を示し「鳥インフルエンザの大発生」発言に因る世界へ投げ掛けた大きな波紋。
今から87年前の1918(大正7)年春から翌年に掛けて世界中で猛威を振るったインフルエンザがあったので、今日は、その事について述べたいと思います。
このインフルエンザは、今から87年前の1918(大正7)年5月、第一次世界大戦の最中であったフランス、マルセイユで発生したといわれ、西部戦線の両軍兵士間で爆発的に蔓延し、間もなくフランス全土に拡がり、やがてスペインへと拡大していった。戦場という不衛生状態な上、兵士の栄養状態の悪化により、膨大な多くの死亡者を生んだ。
当時、このインフルエンザは『スペイン風邪』と呼ばれた。発生時期から判断するとインド=マルセイユ航路からもたされたと考えられているが、中国のクーリーから米兵に感染し、それがヨーロッパに移動する事によって、フランス西部戦線に拡がったと言う説もある。更にスペイン王室の一員がこの風邪に罹り、それが新聞報道された事によって拡まったという説もあるが、本当の所は不明である。
同じ頃、中国、インド、そして我が日本でも発生。数多くの死亡者を出している。当時全世界の人口が約12億人。その内の約2,500万人がこのインフルエンザに感染し死亡している。日本に於いて言えば、約2,500万人が感染し、約38万人が死亡した。アメリカでは、実に約85万人が死亡している。その数に只、驚く他はない。
当時の医学界は、細菌学が興隆し、病気の殆どは細菌によって引き起こされるものと考えられていた。遵って細菌よりずっと小さいウィルスは、当時観察する事が出来なかった。医学防疫陣にとって、全く未知のものと言えたのだ。亦、インフルエンザウィルスに対する知識は皆無に等しく、効果的治療の方法も無かった為に起きた悲劇でもあった。
スペイン風邪の再来とは言いませんが、インフルエンザウィルスは変化・進化が早く、新しいタイプがすぐに誕生する為、免疫効果が弱くその上、交通機関の発達、ワクチンの不足、副作用による予防接種の制限などで、現代に於いても大流行を起こす危険が非常に高い病気なのである。
歴史でも習った事があるが、明治、大正時代の文学者・評論家・新劇運動家であった島村抱月が、このスペイン風邪が原因で死亡したと言われている。
島村抱月】1871(明治4)年生〜1918(大正7)年没。
文学者・評論家・新劇運動家。島根県生まれ。東京専門学校(早稲田大学)文学科を卒業後、「早稲田文学」の編集者、読売新聞」の記者、母校の講師を経て、1898(明治31)年、三省堂の辞書編集に携わる。1902(明治35)年イギリス・ドイツに留学。1905(明治38)年帰国後早大教授として美学・文芸史などを講じ、評論家として活躍したのち自然主義文学の理論的支柱となった。この間1906(明治39)年坪内逍遥らと文芸協会を組織。西洋演劇の移植に努め、早大文科の中心となり、多くの後進の指導に尽力した。女優松井須磨子と恋におち、1913(大正2)年同協会を脱会。その後、須磨子を中心とした芸術座を結成。上演劇の翻訳や創作劇の執筆,演出家・劇団経営者として新劇の大衆化に貢献した。『人形の家』『復活』などが有名。