仰木彬氏死去

今日、亦、残念なニュースが飛び込んできた。オリックス前監督でオリックス・シニアアドバイザーの仰木彬氏が15日、肺がんに因る呼吸不全の為、福岡市内の病院で亡くなった。70歳だった。近鉄オリックスの監督として、三度のリーグ優勝。オリックス時代の1996(平成8)年にはイチロー(現マリナーズ)擁して巨人を破り日本一になるなど、幾多の栄光を築き上げた名将の死。突然の悲報に、プロ野球界内外関係者の間には驚きと早過ぎる別れを惜しむ声が広がった。所用の為、アメリカに滞在している米大リーグ、マリナーズイチロー外野手は、仰木彬氏の急逝に文字通り言葉を失った。現地時間15日朝、知人を通じ、知らせを受けたイチローはショックでコメントできない様子だったという。15日のフジテレビ『すぽると』に急遽出演した愛弟子の一人金村義明氏は訃報に声を搾り出すのがやっという姿は痛々しかった。
自分は全く知らなかったのですが、仰木氏は過去二度に亘り、がんとの闘いを克服して来たそうで、1994(平成6)年12月に、最初の肺がんの手術を受けていたようだ。それから9年後の2003(平成15)年に再発したが、抗がん剤に由る治療が成功し2004(平成16)年12月の野球殿堂入りを祝うパーティーでは、イチロー、野茂、田口選手ら多くの教え子に囲まれ、その前後にはゴルフコンペも楽しみ、今年の2005(平成17)年には、統合球団オリックスバッファローズから監督を要請され承諾。
仰木氏の体調を心配した知人、関係者からは(監督をやることに)反対の声があったようで仰木氏は『グランドで死ねたら本望だ』と言って周囲の声に耳を貸さなかったらしい。就任当時から目標をプレーオフ進出一本に絞り、病魔と壮絶な闘いを続けながら、文字通り命懸けで新球団の指揮を取り続けた。然しシーズン終盤は、誰の目にも疲労困憊の様子が窺えたという。実際は抗がん剤の副作用で殆んど食事が喉を通らない状態だったのだ。欠席した球団納涼会が行われた11月末のこの頃から容態が悪化したようで15日午後4時すぎに帰らぬ人となった。
何で、シーズン途中で(監督を)辞めさせなかったのだろう。いや、そういう話があったのかも知れない。然し仰木氏の性格からして頑として首を縦に振らなかったのだろう。残念ですね。本当に残念だ。
仰木氏の印象と言えば『あっちの方』と思わせる風貌でしたけど見ていると(失礼な言い方ですが)豪快で何か気のいいおっちゃんって感じがして凄く親しみ身が感じられた方でした。1988(昭和63)年の10月19日のロッテとのダブルヘッダーでの引き分けにより優勝を逃した時の印象は今も鮮明に残っている。仰木氏の心残りは(未だ決定したわけではありませんが)清原選手と中村選手のバッファローズ・ユニホーム姿を見られなかったことかも知れない。心よりご冥福をお祈り致します。
仰木彬
1935(昭和10)年4月29日生−2005(平成17)12月15日没。享年70歳。
福岡県中間市出身。
・1954(昭和29)年、福岡県立東筑高校から西鉄ライオンズに投手として入団。(後、二
塁手へ転向)
・1967(昭和42)年、現役引退。西鉄ライオンズコーチ就任。
・1970(昭和45)年、近鉄バッファロースコーチ就任。
・1988(昭和63)年、近鉄バッファロース監督就任。
・1989(平成元)年、監督として初のリーグ優勝。
・1992(平成4)年、近鉄バッファロース監督辞任。
・1994(平成6)年、オリックスブルーウェーブ監督就任。
・1995(平成7)年、監督として2度目のリーグ優勝。
・1996(平成8)年、監督として初の日本一。
・2001(平成13)年、オリックスブルーウェーブ監督勇退
・2004(平成16)年、野球殿堂入り。
・2005(平成17)年、オリックスバッファローズ監督就任。高齢による健康面の問題
から1年で退任。球団シニア・アドバイザー就任。